株式会社樫野
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樫野140年史
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株式会社樫野140年史

創業者 樫野藤藏と樫野石灰の創業
第一話
樫野恒太郎
息子たちに囲まれた藤藏(右から3人目)と隣に座るミツ
 株式会社樫野の社名は、明治期の新港地神戸で、創業者の樫野藤藏がつけた最初の屋号「樫野商店」に由来している。その後この商号は2度変わった。太平洋戦争末期において「樫野石灰工業」に変更され、平成元年(1989)に現在の「株式会社樫野」へと生まれ変わったが、「樫野」の名は一貫して受け継がれてきた。これが、創業者である樫野藤藏の苗字からきているのは、言うまでもない。
 篠原藤藏(のちの樫野藤藏)は、弘化元年(1844)6月7日、現在の徳島県阿南市中林町に、篠原良助の次男として生まれた。江戸時代には中林村と呼ばれていた静かな農村であった。一帯は伸びやかな平野が広がる田園地帯で、10分も東に歩くと紀伊水道を望む美しい砂浜が広がる、半農半漁の土地柄である。
 身分的には武士ながら、決して裕福とはいえない郷士の家に生まれた藤藏は、家族とともに農業に汗を流し、武家の習いである剣術や馬術などの武芸も一通り父親から教えられ、時間を見つけては鍛錬をした。
 樫野貞五郎はもとは竹内定之丞といったが、主君である徳島藩中老・森甚五兵衛に懇命され、森家の譜代家臣・樫野家を再興するため改姓し、竹内定之丞改め樫野貞五郎となっていた。しかし、2人生まれた男児はどちらも幼年のうちに亡くしてしまい、樫野家存続のため長女に婿養子が必要となり藤藏は文久元年(1861)11月10日に婿養子として樫野家へ入籍した。

 藤藏は樫野家に入ったあと、森甚五兵衛の家臣に取り立てられた。しかも、家老、御用人に次ぐ御小姓という高位であった。 この当時の諸藩は、江戸幕府を奉じる「佐幕」か、天皇に忠義をつくす「勤王・倒幕」か、といった問題で大いに騒がしい情勢であった。藤藏が森家家臣となった幕末の徳島藩は、それ以上に微妙な立場に立たされていた。藤藏が仕えていた森甚五兵衛の家臣団の間でも、佐幕か勤王かといった意見が活発に論ぜられていたと『椿泊漁業史』にも書かれている。そんな激動の時代の元治元年(1864)11月10日、樫野藤藏とミツの間に男子が誕生した。
 藤藏は赤ん坊に、「恒太郎」という名前をつけた。「恒」という漢字には、「いつまでも、永遠に」といった普遍的な意味があり、「太郎」という名には「長男、立派な男子」といった意味がある。「丈夫で健康に育ち、樫野の家をしょって立つ立派な男子になるように」という願いをこめた命名であった。
 恒太郎が生まれた元治元年は、六十干支でいうと甲子の年にあたっている。甲子の年は、60年に一度やってくるいちばん初めの年にあたり、めでたい年として古くから尊ばれてきた。人名に、甲子太郎や甲子男といった名前をよく見かけるのはそのためである。
 恒太郎が生まれた元治元年(1864)は、日本史に名高い事件がいくつも起きた幕末動乱期であった。 慶応4年(1868)1月「鳥羽伏見の戦い」が始まった3日後、藩主・蜂須賀斎裕が没したあとを継いだ茂韶は、倒幕に参加する決意をして自ら兵を率い、海路江戸に向かった。茂韶とともに江戸に入った第一陣の徳島藩部隊は、主に深川や江戸城諸門の警固を担当した。
 藤藏が明治31年(1898)に、板垣退助に書き送った書状によると、この時椿泊部隊は「東京赤坂旧藩主蜂須賀家本営に滞在」しているので、そこで上野彰義隊の反乱が起きるまでの間、駐屯していたと思われる。彰義隊との戦いは5月15日だったので、藤藏たちの部隊は到着して間もなく、この戦いに遭遇したことになる。
 戦いは、重火器に勝る新政府軍の力が圧倒的で、彰義隊は半日で制圧された。このあと徳島藩は、会津討伐のために白河に進軍している。藤藏が、故郷徳島に帰り着いたのは、稲刈りも終わった初冬のことであった。
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創業窯があった土手のあと
明治15年頃の加納町付近
 
■石灰製造業のスタート
 株式会社樫野には、創業当時の詳しい資料はなく、社歴に「明治6年(1873)、徳島県阿南市中林町において肥料用石灰の製造を開始」とあるだけである。  中林村に帰還した藤藏は農業のかたわら中林村では初めての米穀商を始めてみたが、事業的には芳しいものではなかった。数年でこの商売に見切りを付け、石灰製造業を始めることにした。
 一旗あげようと石灰製造業にのりだした藤藏だが、大きな事業を興せる蓄財もなく、同郷の小濱家に創業資金を出してもらう事になった。新聞記事(明治45年1月28日付 徳島日日新報)にはこのとき藤蔵は、事業開始に必要な資金が用意出来ず、そのためにほとんど使用人のような扱いを受けていたとある。
 それでも藤藏には、「いつかこの事業で独立してやろう」という夢があった。雌伏すること10年、藤藏はここで石灰製造業のノウハウをしっかりと身につけ、明治15年(1882)、文明開化に沸き立つ神戸へと飛び出していき樫野商店を設立した。
 明治15年(1882)、文明開化に沸き立つ神戸へと飛び出していき樫野商店を設立した。 明治15年頃の加納町付近  明治15年(1882)に神戸で初めて石灰を製造し、神戸製紙所などに商品を納めながら、石灰製造・販売業を拡張していった樫野藤藏は、明治20年(1887)に、樫野商店店舗を加納町6丁目に、二代目工場を南本町3丁目に持つにいたった。
  この間藤藏は、神戸において樫野商店の信頼を確立するために、文字通り身を粉にして働いていたのだが、徳島の樫野家でも長男の恒太郎が、不在の父親に代わって一家の大黒柱となって大車輪の働きを見せていた。明治13年(1880)に富岡中学(正則中学校第5級)を卒業した恒太郎は、藤藏が上神した明治15年に、徳島県那賀郡役所より「見能方小学校教員補助申し付け」を受け、教員として働き始めている(恒太郎18歳)。
明治20年に稼働を始めた二代目工場
 
  明治20年(1887)に稼働を始めた南本町の二代目工場だが、意外なことにこの工場は、昭和39年(1964)まで南本町にずっと残されていた。中邑社長時代にこの土地を神戸市に売却し、その資金をもって現在の硝子事業部門の拠点となっている御影の事業所の土地を購入しているので、藤藏の蒔いた種は、現在の株式会社樫野の中核施設となって、今も活躍していることになる。
 明治27年(1894)に樫野藤藏は、「石灰の製造拠点は徳島、営業拠点は神戸」という事業戦略に方針を転換する。藤藏が「生産は徳島、営業は神戸」と、思い切って事業体制を切り替えたのは、経営の効率化を考えてのことであった。急速な都市化で人口が増え続ける神戸市街では、粉塵問題や火災の不安がつきまとう石灰工場をこのまま続けられるとは思えないし、原料である石灰石を徳島や和歌山から神戸港までわざわざ運んでくるという物流のやり方も、原石が焼成して目方が減ってしまうことを考えれば、非効率な経営である。石灰石の産地で製品にまで仕上げて船で運ぶ方が物流費も削減できるし、何より賃金の高い神戸で職工を集めるよりも、徳島で人を雇う方が人件費の圧縮にもなる。
  いろいろメリットはあるのだが、最終的に藤藏を決断させたのは、長男恒太郎の存在であった。苦労の連続だった加納町3丁目の創業期にも、しっかり営業や製造を補佐してくれ、今や樫野商店の二代目経営者として、一切を任せきれる力量と能力が備わっていた。彼を製造部門の要として徳島に配置し、自分は神戸で営業に専念すれば、2人の働きが何倍にも相乗効果となって、これまで以上の事業成長が期待できた。
  新設された黒津地の製造工場は、「樫野石灰製造所」の名がつけられた。神戸の営業拠点が「樫野商店」、徳島の製造拠点が「樫野石灰製造所」という名称の併用は、その後大正8年(1919)の法人化まで続いていくことになる。

 明治末には、徳島はもちろん神戸においても、押しも押されもせぬ堂々たる業容となった樫野商店は、さらに成長を続けていた。神戸、徳島、大阪に200人余りの従業員を抱え、セメントや石灰の注文は、毎日のように得意先から舞い込んでいる。60代になった創業者の樫野藤藏は、名目上は現役オーナーであったが、実質的には第一線から半歩身を引いた、気楽な監督者の立場になっていた。
  長男の恒太郎は黒津地にあって、しっかりと本店の舵取りを行いながら、神戸の樫野商店もすべて取り仕切ってくれていた。藤藏自身は、恒太郎が決裁を求めてきたことに対して、うなずいて判をつくだけでこと足りている。恒太郎の判断は、経営者としての自分の判断と、ほとんど狂いはなかったからだ。
  藤藏は、老妻ミツとともに、神戸で悠々自適の生活を送りながら、そろそろ引退してもいい頃合いだと思っていた。今となっては、夫婦揃ってたまに黒津地へ帰って、孫や曾孫たちに囲まれながら、賑やかに過ごすことが何よりの楽しみとなっていた。 株式会社樫野の社歴では、樫野藤藏が正式に樫野商店から引退をしたのは、大正2年(1913)となっている。この年の1月24日、樫野恒太郎が藤藏より家督相続をし、黒津地の本家宅地を3月に所有権移転する登記をすませている。
  藤藏は69歳を迎えていた。神戸で事業を興してからほぼ30年、一代で従業員200人にもなる大商店をつくり、引退した年には、孫の進に長男の誠助が誕生し、これで樫野商店の4代目もできたことになる。藤藏は、大きな充足感に包まれていた。
養家の竹内家や恒太郎をはじめとする樫野家の人々が仲良く眠る墓
  大正7年(1918)5月14日、第二の故郷である神戸で、藤藏は75年の生涯を終え永眠した。中林村の海岸につくった小さな石灰製造所から身を起こし、一代で樫野商店の土台を築き上げ、“那賀郡随一の大工業家”と称されるに至った波乱の人生であった。多くの肉親や店員に惜しまれつつ、藤藏は安らかに天寿を全うした。妻のミツはその後、大正13年(1924)まで生き、79歳で永眠している。
  藤藏とミツの墓は今、阿南市の出生地中林町に美しく整備された墓所にある。故郷の山裾に抱かれるようにしてある墓所には、養家の竹内家や恒太郎をはじめとする樫野家の人々が仲良く眠っている。
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